あれから 1 つ分かった事が「 (not only) Two Sides」ってこと Written by KZ
「俺たちはこれからだぜ」
最初は何だったか、良く覚えている。
別に、それが劇的だったから覚えているわけじゃない。でも、なぜか記憶に新しい。
2012 年、俺はボロボロになりきる前のミラに乗ってたし、ドイケンはまだ学生だった。
その頃は今ほど、音楽を作ることの素晴らしさを理解してなかった。
フリースタイルで事足りると思ってた、ほんと愚かで稚拙で笑える。
多分、サイファーの帰りがけに、「翌日に DFBR にいくけど、ドイケンも行かへん?」と誘ったのが、この話の始まりだ。
華金についての話の中でも触れた場面。
翌日、王寺へ向かう168 。ドイケンに車内で、その日に録音するトラックを聞かした。
9th Wonder のトラックだった。今も昔もドイケンのフットワークは、春の風より軽い。
「このトラックで俺も書いていいすか?」と言ってきたので、テーマを伝えた。
ドイケンは嘘みたいな話だけど、 DFBR に着くまでに書き上げた。
その時の曲が Plain の Cypher だ。
”しがらみなんてへったくれ 嫌になったら電話くれ
朝までサイファーしようぜ 俺らはそれぐらいしか”
時節により、多くのものが変わったが、これは今でも、変わらない。
この 1 曲がきっかけで、華金で Live をするようになった。
どちらともなく、まとまったものを作りたいと話したような気がする
あの時の俺たちは、単曲を作ってあげる、単曲を作ってあげるという行為に飽きが来てた。
毎週、 DFBR に行っては、トラックを決めて、その場で曲をとって Sound cloud に UP してた。
そして、俺とドイケンは、多分ほとんどの曲に参加してたんじゃないかな。
音楽とお金を切り離すと、オナニーを覚えた猿みたいにある面白さを見つけると没頭する嫌いがある。
今考えると、ほんとにどれだけ歩みが遅いんだと、自分でも嫌気がさす時があるよ。
「Plain の Intro 走る哲学者」
あの夏の合宿は刺激的だった。今でこそ、製作の合宿は馴染んできたし、興奮も落ち着きだした。
でも、あの時は dio j さんも、俺も、ドイケンも、その場に居あわせた featuring の皆もワクワクしてた。
フリースタイルは、その瞬間。サイファーは長くても、一晩。曲作りは一日。アルバムは数ヶ月。クラシックは数年。
そして、初めてのアルバム作りだった。俺たちだけで始まって、俺たちだけで終わる。
ビートから歌詞も、レックにミックスもマスタリングも、ジャケットのデザインも。
全部だ。
すごく誇らしかった。
まず、自分たちで全てやる。その上でクオリティをあげる。そして出来たものが、何かをもたらす。
自分の声が遠くまで響くことを味わった。
身内の少しだけ、悔しそうな顔を見るのも、名も知らない人が感想をくれたのも嬉しかった。
その後、俺は横浜にいく、この話はまた、ソロのアルバムのタイミングででもしたい。
曲作りをする上で、遠く離れたことは功を奏した。
「あれから 5 年 そりゃ、まぁ時が経ってる」
俺は、1人の時間が爆発的に増えた。
その時間でテーマを考えて、歌詞をその場ではなく、仕事の行き帰りに、また1人の休日に書く。
バースに使える時間が増えたのだ。その分、歌詞の強度は増したと思う。
「人生は美しい。良くある人生ですら、実はどの瞬間も美しい」と言うのを、いろんなテーマから書けたと思う。
ブースに入るたびにお互いの進化が見えた。
ラップをドイケンに勉強させてもらう瞬間も多かったし、トラックメイクを dio j さんに教えてもらうことも多かった。
この期間を通して、ほんとにレベルアップができた。
ただ、俺の進歩は全て、歌詞に帰結するので是非、小難しいことは抜きで歌詞を味わって欲しい。
掛詞や比喩やタブルミーニング、んな手法は素晴らしい歌詞の前では木端でしかないから。
横浜特有の坂道は、俺の歌詞の足腰も鍛えてくれた。
野毛山から望む町の温もりや、深夜のみなとみらいの寂しさは今でも昨日のようだ。
「見下して文句より痺れる曲を」
前後したが、最初にできた曲は「 Set,Go pt.2 」だったはず。
えらくドイケンが、トラックを気に入ってくれたのを覚えている。
シャワー浴びてからクールグリースで髪の毛を固めて遊びにいくような、ご機嫌なトラックだ。
そこからピースになる曲を作っていった。
「 tiktak 」も、「おやすみ」も前半に作られた曲だ。
「Wonʼt Stop Remix feat.テークエム」や「旅 feat.タウリン」や「Reunion」もそうかな。
多分、このころの自分は梅バムやソロで得た感覚を、さらにブラッシュアップしようと躍起になっていた。
中盤からは、横浜での孤独を糧にトラックを作っては、まとめてドイケン送った。
そして、 テーマを並べて、アルバムにおいて、何が足りないかを真剣にディスカッションした。
自分がその時に経験したことを曲のテーマにすることも多かった。
例えば「鼓動」はみゆきと籍をいれたことからだし。
「Wake UP For What」は人生で仕事の意味合いが増した事からだし、「Hold On」は職場の友人の自殺からだった。
数年ぶりに腹違いの妹と会って妹の仕事を聞いたことで「一緒にいた feat.たまこぅ」を書きたいと思ったし。
ほんとに人生は、フォレスト・ガンプの言うチョコレート箱だ。
あと、「Hurry」や「立ち止まる」といった良いトラックを作れたのも嬉しかった。
横浜時代はずっと1人で作り続けてた。 300 曲以上作った。
たまに帰って、 dio j さんに聞かして褒めてもらい、またフィードバックをもらえるのも嬉しかった。
日曜の夕方、17時のチャイムがなる少し前、曲作りが落ち着いた時間帯、
そんな時に DFBR のあのスピーカーで流すまでが自分のトラックメイクだった。
そして、中盤から終盤に向かいだす。
ディテールとしてどんな曲が足りないか。
また、長く時間が経ち、 Rerec を行いたい曲がないか、かなり細部まで詰めて話をした。
「拘り feat.ふぁんく」は、プロジェクトの始まり時点からふぁんくには参加をお願いしようと話してた。
「N.C.O.D.」から「デスプルーフ」、さらに「The Helm」と、 3 人では不思議と曲をたくさん作ってる。
しかもどれも良い曲だ。今回のも当然。
一番近いところに、一番好きなラッパーがいるのは、幸せだ。
「Favorably Change feat.tella」は、 DFBR での空白みたいなの瞬間に生まれた気がする。
HOOK の歌詞書かしてもらった。
tella と曲を作る時には HOOK を書かしてもらう事が多い。
tella のメロディーは抜群なので、歌詞を書くことが至極楽しい。
いまとなっては、あの上星川の大きなワンルームでの tella との曲作りが懐かしい。
フィーチャリングは 5 年を通して、そのタイミングで居合わせた人や、
曲のために戻ってきてもらった人など様々だ。
ほんとは R も入って欲しかったしコンビニのジョンのその後を描きたかったけど、 R が忙しすぎた。残念。
ジョンがあの後、どうなったかはまた次回にでも。
そして、一番最後に出来た曲は「Place to Return」だ。
俺はこの曲を、良く聞く。
common の声ネタもハマっているし、スネアの余韻も良い。
歌詞の内容も好きだ。
15 年の年末、仕事納めの人が多く多幸感に溢れた、あの街。
潮風と散歩とブラックコーヒーが好きになった、あの街。
好きな娘と初めて2人だけで生活した、あの街。
その街、横浜の最期の夜、多くの人と泣きながら握手や抱擁をした。
10代の女の子がいれば、同い年ぐらいの奴もいたし、50代の男性もいた。
そんな人や場所や事柄を、差し置いても、帰りたい理由があった。
それが何か、この曲も含めたアルバムを通して伝われば嬉しい。
「俺がただいま 君がおかえり」
そうして、作り上げられた 17 曲は珠玉だ。
アルバムを聞いていると、いろんな人の顔が浮かぶ。
良いやつも、そうじゃない奴もいるが、今になるとどの人にも「ありがとう」と言いたい気分になる。
「痛む身体 満足げな顔 明日には誰しも忘すれちまうことさ
それでも一つも手抜かずやった 信号待ち 人知れず 俺は笑った」
よければ、手にとって欲しい。素直に、いろんな人に聞いて欲しいと強く思う。
ゆっくり、ライブのブッキングも入り出したし、君の街に俺とドイケンを呼んでくれ。
良いライブするからさ。
そして、君の街に呼ばれたら、いっしょに遊ぼうぜ。